ヤバい奴が強いは終わり

いつの時代でも傾奇者はいる。

そして傾奇者のある程度のテンプレートができている今、「ヤバい奴が面白い」は変わりつつある。

人と違う考えや視点を持った人と意見を交わすのは楽しい、僕が言いたいのはそういう事ではない。

逆張り、の因果を間違えてないか。

流行と、普通と、一般と違う事をするからかっこいい。と、

かっこいい、面白い、と思われたいから変わった事をする。の違いはとてつもなく大きい。

ヤバい奴が面白いなんて嘘、面白い奴がヤバいだけだ。

そもそもヤバいなんて言葉は漠然としていて、かつ少しトンチキで嫌いだ。

ヤバい奴が面白いのは小学生まで。周りも「ヤバい」奴のことを冷ややかな目で見て挙げてほしい。

 

音楽のセグリゲーション

音楽にはその性質上、セグリゲーション、住み分けが必要だ。

 

まず音楽には無数のジャンルがある。しかしそれに上下関係はない。どれが優れているとか、どれが高尚だとか。

 

また、音楽には無数の楽しみ方がある。しかし同じくそれに上下関係はない。音楽を家で聞くのが好きな人もいれば、ライブで暴れるのが好きな人もいれば、音楽を聞いて踊るのが好きな人もいる。それに貴賤はない。

 

それらは音楽という一つのあまりにも大きすぎるカテゴリで括られているが、実は別々の趣味だと考えてしまう方が良い。

 

当たり前だが、何百万もするオーディオ機器を揃えて実家でクラシックを聞く人と、ライブの演奏そっちのけで暴れて人を殴り、汗をかく人が音楽に対して同じ熱量、姿勢な訳がないし、それらが混ざり合うと必ず対立は起こる。

 

音楽というのはカジュアルな宗教だからだ。

人は音楽の思想に反映され、人格形成の因果両面から音楽は人を刺激する。

人が音楽を作り、音楽が人を作るのだ。

 

そう考えると、異教徒たちである彼らが同じ屋根の下暮らす必要はないのだ。いつかはどうでもいい事でケンカが起こる。それも無意味な。

 

異教徒は異教徒同士大人しく住み分けをすればいいのだ。上下はない。貴賤はない。

ただ、見下したり、ネタにするのは内輪だけでしろよ、そういう事だ。

 

夢と現実は切り離せ

会いに行けるアイドル、ツイッターでリプ返をするバンドマン、ライブ後に金を払えばチェキを撮れるバンドマン、

別にそれはいい。そういうもんだから。

 

俺にとってエンターテイメントは夢でありたい。夜に見る夢。

ライブも新譜を聞いた衝撃も、覚えてるようで覚えてないような一夜の夢みたいなそんな感じでありたい。

 

カリスマ性っていう言葉があるけどそれは俗っぽさと切り離された存在の事ではないかと思う。

 

今のエンターテイメントは俗っぽすぎる。

SNSが普及して、感動とか面白い物がいつでも手に入る、いわば感動氾濫時代の今、みんなガバガバのユルユルの感性になりかけてる。

ネットに犯されて何が自分にとって気持ちいいか分からない。人が気持ちいいと言うから気持ちいい。そういう時代。

 

カリスマはごく一部だ。カリスマになりたいならツイッターをやめろ。

 

俺の嫌いなバンドマンはエゴサでファンをブロックする。クソ俗物すぎる。それでカリスマ“風”を気取るな。

その行為がどうこうではなく、小さすぎる。

 

SNSは便利な金儲けの道具にもなる。

カートコバーンが嫌った、音楽の拝金主義。

儲けてなければ自由にツアーもできないじゃないか、と。違う。

金が少し見えた時点でもうカリスマではない。

 

椎名林檎が必死で売り込みをしてるように見えるか?ツイッターでいちいち人の評価を気にするように見えるか?

 

まあみんなそれぞれの方法で頑張れ。

 

曲作り

素晴らしい音楽に出会うと曲が作りたいなあとなる。

 

言いたい事を歌にする、というタイプではないのか僕はメロディーを先に考える。

 

でもその衝動は色々めんどくさい事で等比的に消耗しちゃって結局自慰レベルの物しか出来ない。

 

「初期衝動のまま」ってよく聞くけど実際音楽の事だけ考えて生きる訳にいかないし、なんでもやり続けないとやる気なんてちびちび減ってく。そういうもの。